記憶を街にのこせたら vol.3 ~もう一度、中西巌さんに~
▼中西さんと旧被服支廠を訪れた時の様子はこちら
▼中西さんが当時歩いた道のりを歩いてみた時の様子はこちら
こんにちは。せとまゆです。
被服支廠跡から向洋まで、中西さんのたどった道のりを歩いた日から2週間後の、6月28日。私となおちゃんは、中西さんが現在お住いの呉市安浦町まで、改めてお話を聞きに行きました。
実際に歩いてみると、お話を最初に聞いて「知ったつもり」になっていた当時の情景がいかに部分的なものであるかを痛感して、もう少し、質問を重ねて話を聞かなければと思ったのです。
もう一度当日の証言をなぞりながら、そして私たちが実際に道を歩いた時の感想や疑問を重ねながら、断片的な記憶をお話いただきました。
被服支廠のものがなくなっていた話
中西さんが被爆した被服支廠の跡地に再び訪れたのは、1ヶ月以上過ぎた1945年9月のこと。その時には、建物の中には文字どおり「何も無くなっていた」んだそう。
「後から聞いた話だと、偉い人ほど、荷車・馬車を使って大規模に持ち出したみたい。
機械に強い人はミシンのモーターを全部持ち出したとか。それを元に広島の電気会社を作って大儲けしたとかって話も聞いたよ。
掃除したように物は何にもない。手ぬぐい一本落ちてなかった。軍の管理下の頃はあんなにものひとつ持ち出すのに厳しかったのに。」
当時はカバンもとても貴重だったからと探しに来た中西さんでしたが、もちろんカバンも残ってなかったそう。
「草むらの中に落ちていたボビンひとつ見つけて持ち帰った。お母さんはそれでも喜んでいたよ。当時は糸も超貴重だったから。国防色の糸ね。」
広島駅が燃えているのを見た
私たちが辿った道を説明していると、ふと思い出したように当日の広島駅の様子を語ってくれた中西さん。
「横目で見ると広島駅が猛烈に火を噴いて燃えていた。中心地はすぐ燃え尽きて、どんどん燃え広がっていたから、私がその辺りを通った夕方頃はちょうど広島駅が燃えていた。
コンクリートで石造りだから建物は燃えてなかったけど中のものは燃えていた。丸い窓が全部火を噴いていた。毎日通っていたあの駅が燃えている、と思ったね。二葉山にも山火事が部分的に出ているのが見えた。焼けた後の広島駅は異様にまっしろだったのを覚えてる。」
当時の大洲通りの景色
大洲通りは、呉の鎮守府と広島の大本営をつなぐ道路で、当時としては珍しいコンクリートの道路。戦争末期に呉の軍の施設と広島の軍の施設を結ぶために突貫工事で作ったんだそう。
「当時にしてはびっくりするほど大幅な道でね。『飛行場もかねとるんか?』と思ったよ。まわりはレンコン畑やぶどう畑。民家はあまりなかったね。」
当日の夕方、中西さんも歩いていた頃、大洲通りには道々けが人が何人かいたそうです。
「レンコン畑の泥水の中へ火傷した人が半分入っているような人もいた。
ぶどう棚の下に入ってる人もいた。
火傷した人がすがりついて『助けてくれ、連れてってくれ』といってくる人もいた。大人の人でね。怖いとかなんとか通り越して、頭真っ白になる。異常なものの中に放り込まれるとそういう感覚がなくなるみたい。
ただただ『お母さんとこに帰りたい』という感覚だけ覚えてる。人間ってそんなもんらしい。
『家に知らせてください』という人も1人か2人いた。冷静な感覚だったら『じゃあどこですか』と聞けたけど、そういうのも考えられる精神状態じゃなかった。そんなことくらいならできんこともなかったかもしれん、と後になって思うよ。
助かるか、せめて死に目に会えた人もおったかもしれん、今でも申し訳ないという気持ちもある。」
当時の大洲通りの情景を振り返って、頭で考えて家路を辿っている人は少なかったんじゃないかと中西さんは推測します。
「正常な判断はできない状態だったこともある。程度の差はあれどね。人の行く跡をとにかくぞろぞろついていく、そんな感覚。どこを通ってどうすれば、というような判断はつかない状態だった。誰かがそちらに向かいだしたら自ずとついていく。
あの時、被服支廠にぞろぞろ入ってきていた人も、そういう感覚できていたんじゃないかな。『真っ赤な建物は軍のもの』という認識はみんなあったから。軍隊の施設に行けばなにかしてくれると思っていた。だれか1人が来始めたら流れ込む。たぶんどっこもそうだった。
宮島街道、可部街道、大州街道、もしくは宇品から船で。
その4つが避難道というかね、ともかくともかくの道だった。」
家に帰った時のこと
「家に帰る前にね、プロペラ飛行機作りの名人のお兄ちゃんの家に寄って、『頼んでた飛行機どうなっとる?』いうて。そのお兄ちゃんは少し年嵩だったから、『広島の方はどうなっとるん、大変なことじゃ』的な会話をして、数分寄っただけですぐ帰ったけど。ほんとにアホみたいじゃろ。半分子供みたいなもんじゃけえねえ。」
中西さんが家に帰ると、家族はもう帰ってこない中西さんを思って仏壇を拝んでいるところだったそうです。
「妹は顔を見るなりうわーっと大泣きで。昼頃は、おばあちゃんたちが呉道路の方に立って私の学校名を言って、『この学校の学生を知りませんか』聞いていた。『市内の学生は皆死んだよ』と言われて、死んだことになっとったんよ。」
「前日に突然お母さんがちらし寿司を偶然作ってくれてね。当時としてはすごいご馳走よ。平生に食べるようなもんじゃない。たまたま近所の人が、一握りのお米や玉子、小イワシをくれたみたいで。粗末なチラシ寿司だけど。『お母ちゃん美味しいなあ美味しいなあ』、と私はとにかく喜んで食べた。少しずつしかなかったけどね。だからあれが最後の晩餐になってしまったかと、お袋も思ったんだって。一度は半狂乱になって市内に探しに行く!と騒動していたみたい。」
いろんな母がいた、いろんな先生がいた
当時の広島の、いろんな母親たちの話も聞きました。
「軍国夫人のお母さん、戦争反対のお母さん。いろんなお母さんがいた。『体調が悪い』という子供を、無理やり行かせたお母さんも、数ある中にはおったじゃろう。戦後二十年くらいたって、無理やりいかせたお母さんの話を聞いたよ。もうその時はおばあちゃんになっとっちゃったけど。
『私のこの右腕を誰か切り落としてくださらんか。
息子が体調が悪いと言った時に、「あんたが頑張らんにゃ」と右腕で肩を押した。
「じゃあ僕は頑張ってくる」ってニコッと笑って出て行った。
あの笑顔が忘れられん。』
『この右腕であの子を地獄へ突き落としたんだ。
あの子は今でも地獄で恨んでいるだろう。
この腕のついたままでは、地獄であの子にあわせる顔がない。』」
学徒動員中の学生がたくさん亡くなったという話を、多くの被爆者の方から聞いていましたが、亡くなった学生さんたちの陰には、その日その場所にその子を行かせてしまったという自責の念にかられる、母親や先生たちがいたのだと、中西さんの話を聞いて初めて気づきました。
「一人生き残った校長先生もいた。お母さんたちから『うちの娘を返してください』と言われてね。詮ないけど、恨みや気持ちの持って行き場がなくて。うちの娘はどこで死んだんですかと泣きつかれても、どうしようもない。『一緒に死んでやりたかった、一緒に死んでやりたかった』とおっしゃっていたそうだよ」
自分の出身校を言えなかった頃
「私の行っていた附属中学は全員助かった。県立じゃなくて官立だったから。
建物疎開には行っていなかった。単独で文部省の卒業生に頼み込んで、勤労奉仕をせんわけにはいかんけど、農村の勤労奉仕をしていた。八本松を拠点にね。
戦後は他校の遺族から恨まれた。ちょっとしたエリート学校みたいな感じもあったから。女学校はヤマナカ、男子はフゾク、がそういう雰囲気。『附属中学はけしからん』って。そりゃ恨めしいよな。
被爆した、というと『どこの学校ですか』と聞かれる。嘘はつけない。それもあって、被爆したという話は本当にしばらくできなかった。学校の慰霊碑ができたのもここ十数年よ。」
話を聞けば聞くほど、様々な立場の様々な痛みがそこにあったこと、未だそこにあることを痛感する時間でした。直接的な傷だけでない、見えない傷を無数に生み出した原爆。この見えない傷を感知するには、想像力が不可欠です。
想像しながら、街を歩くこと。
自分たちの中にその意味を落とし込みながら、この「街を歩く」をプログラム化してみようと、なおちゃんと決めたのでした。