ハプチョンへの旅1~釜山1日目~

韓国は釜山市からこんばんは。なおです。

筆不精のわたしが、現地からその日のことをお届けすることにトライしています。

どうぞお付き合いください。

 

さて、現在、釜山にいます。

 

広島・長崎に投下された韓国・朝鮮の方のことを知りたいと思い、

在韓被爆者の多く住んでいる町、ハプチョンを訪れるべく釜山にやってきました。

 

今日は北海道の大地震のニュースを受け、とても心配な気持ちになりながら空港に降り立ちました。何が起こるかわからない。常に備えておこうということと、日々悔いなく生きようということを思いました。

 

今日お会いしたのは、李大宰(イ・テジェ)さん。韓国原爆被害者2世会会長であられます。お父様は長崎で被爆。その後韓国に戻り、在韓被爆者の権利を求める活動をされていました。当時日本で認められた韓国、朝鮮の方への被爆者援護法の適用も、その人が韓国や朝鮮に戻ってしまうと無効になるという通達がありました。それはおかしい!ということで、在韓被爆者への健康面、経済面での援護を求める裁判の途中、お父様は亡くなられたそうです。

「73年経った今もなお、権利を保障されていない在韓被爆者が多くいる。被爆手帳を申請するために、被爆した場所や様子を自分たち自身で証明しないといけない。それはとても困難なことです。(高齢となった人たちが、異国での70年以上前のことをどうやって証明できるでしょうか。)私達はこれまでの活動で、早く当事者が死ぬのを日本の政府は待っているんじゃないかと感じられてならない。被爆者が亡くなったあと、在韓被爆者の存在を、なかったことにはしたくない。だから、父の活動を自分が引き継ぐかたちで、被爆者がいなくなっても、二世のわたしたちが生き証人となる覚悟だ。」

 

一段と語気を強めて、そう話しておられました。お父様についてはこんなエピソードも。

 

「父は、自分が被爆者である、ということを秘密にして生きていました。私が学校へ行き、大学へ行き、就職をし、結婚をし、出産をし、私の人生におけるすべての段階をて、はじめて、明かしてくれました。被爆者であることを表明することで、いいことは何も起きません。被爆しているということで差別されたり、生きにくくなります。父は、私の母にも自分が被爆者であることを言っていませんでした。自分の家族を、あらゆる困難から守るため、秘密にしていたのです。初めて聞いたときは驚きました。」

 

お父様の強い思いに呼応するように、それを引き継いだ太宰さん。太宰さんのように韓国人原爆被害者二世として活動する方がおよそ300人おられるそうです。

 

「最初は、日本の政府に対して全くいい気持ちはしませんでした。今も政府に対しては、被爆者への賠償をしっかり行ってほしいというおもいでいっぱいです。しかし、「日本人」に対するイメージは、これまでの活動の中で少し変化がありました。私の父は、日本が朝鮮半島を植民地にしていなかったら、日本に渡ることもありませんでしたし、日本に渡っていなければ、被爆もしませんでした。そして苦しい生活を強いられることもありませんでした。日本が父のような在韓被爆者にも相応の賠償をすることを望んでいます。しかし、在韓被爆者のために活動する心ある日本人にも出会いました。彼らとの出会いは、人と人として、日本人にもいい人がいっぱいいるということを感じさせるものでした。日本との行き来を重ねるにつれて、そのことを実感するようになりました。なので、今では日本と韓国の高校生を平和大使として交流させたり、韓国の高校生たちを連れて日本に行ったりもするようになりました。」

 

このほかにもたくさんの話を、およそ3時間にわたってたくさんしてくださいました。

 

太宰さんは、韓国の伝統楽器を演奏されます。大きな横笛、テグムで、朝鮮半島の人々にとって大切な歌、アリランを演奏してくださいました。故郷への思いをこめて。

 

それから、私達にたくさんのお土産をくださいました。まず、話をしている間はお茶を、そして次々にお菓子を、フルーツを。そして活動を紹介する資料や書籍を。そして、ご自身の得意な習字で扇子に絵を書いてくださり、お土産をいくつもくださり、そして晩ごはんをお気に入りだという食堂で御馳走してくださり、さらに、ホテルまで送って下さり、道中、釜山市内の様々な所へ連れて行ってくださいました。

 

釜山には、日本人の官吏が多く住んでいたそうです。水晶洞という場所には、周りとは違う、日本家屋が一棟、文化財として残されています。また、西面(ソミョン)にある市民公園にも連れて行ってくださいました。この場所は米軍基地があった場所で、その前は日本軍の持つ競馬場でした。日本が植民地支配をしている頃の写真、日本軍が駐在している頃の写真、終戦後米軍がやって来てそれを歓迎している市民の写真など、この場所を切り取った写真が多く展示されていました。そして2010年、米軍基地が撤退し、別の場所へ移って、公園ができました。

 

もっともっといろんなことを聞かせてもらったり、行ったりしたのですが、(日本領事館の前の慰安婦像も見ました。)ちょっと眠気に勝てなくなってきたので、最後に感想を書いて終わろうと思います。

 

釜山に来てすぐ、ホテルにチェックインしました。そして市場を歩いて、屋台でチヂミを食べました。地下鉄に乗って、太宰さんに会うために釜山の高校へ行きました。

それまでは、気づけなかったのですが、釜山には町のあらゆるところに、ここが日本が支配していた場所なんだという「事実」「証拠」があるのですね。

太宰さんの話を聞きながら、どうしても自分が日本人であるということを意識している自分がいることに気づきました。一人の人間として、彼の話を聞こうと思った、部分もあったのですが、結局は私は日本人で、かつ、広島の人間なのだということを意識しながらその場にいました。

原爆の話をする時、特に広島では、広島の人たちの目線は「被害者」になるのではないかと思います。私も今までずっとそうでした。シンガポールを訪れたとき、初めて日本にルーツを持つ人間として、日本人が戦争中にアジアの人々に行った残虐な行為を突きつけられ、それをどうとらえたらいいのかわからなくなり、そこで「加害者」としての自分のルーツを意識するようになりました。

今日、原爆や被曝者について話をしていましたが、日本、広島にルーツを持つ私は、一人の「加害者」のルーツを持つ人間として話を聞いていたように思います。原爆ときくとき、「被害者」になりきってしまう錯覚はどうして起きてしまうのでしょうか。韓国に来て、太宰さんの話を聞きながら見えてきたのは、また別の「広島」「日本」の姿でした。前回韓国に来た時に一緒に来た大学の先生から「歴史はある一つの立場から見た過去の出来事の見え方だ」と教わりました。ああ、これがone of いろんな見え方なんだと思いました。

太宰さんのおじいさんは三・一独立運動に関わった人で、韓国政府から勲章ももらってます。おじいさんは何度も投獄され、手の爪がすべて剥がされたりと、拷問を受けてきました。そして、もうこの国には住めないと思い、日本へ渡ったと言います。

太宰さんが自分の故郷や自分のルーツを重んじる姿勢は、誰にでも通じるものであるだけに、彼のルーツを苦しめた国が日本であることを、重く受け止めねばと思いました。太宰さんはそのすべての事実を、実に淡々と、力を込めて、私たちに知らせようとしてくださいました。そこに私達を責めるものはもちろんなく、ただ、彼の大切なもの、そして今も通じる日本と韓国に大切なもの。

太宰さんは「日本と韓国の関係が良くなってほしい」と言っておられました。ひょっと訪ねて話を聞かせてくださいと現れた私達に、これ以上ないおもてなしをしてくださった太宰さんに感謝の気持ちしかなく、また、これほどまでによくして頂けることの重みもまた、感じてしまわずにはいられませんでした。

 

途中から、高校生の男の子が一人、私達にジョインしてきました。彼は学校ではなく塾で日本語を学び、大学からは日本に進学したいそう。韓国語のできない私の通訳となってくれました。彼が明日、私達を案内してくれることになりました。彼もまた、日本が大好きだと言い、とてもユーモアのある性格と共に私達を大いに楽しませようとしてくれます。

 

明日は、釜山市内にある博物館をめぐります。

 

ホテルに戻り、パソコンをたたきながら、なぜこんなことに興味があるのだろうと考えています。色んな理由がありますが、ふと、思い出したのは、母が私が小学生の頃友達と喧嘩が絶えなかった時に教えてくれたことでした。

 

「いい?なおちゃん。難しいとは思うんだけど、相手の立場に立って考えなさい。今、相手はどんな気持ちだと思う?」

 

相手の立場に立って、考えること。一度立ち止まって立場を変えて、考えること。

 

立場を変えるのは、できている振りをしてしまいがちだと思いました。また明日、歴史の新たな立場を感じられるよう、今日はゆっくり休みます。

 

北海道をはじめ、台風を受けた関西の皆様、豪雨災害を受けた中四国の皆様、その他気の休まらない夜を過ごす方も多いことと思います。一日も早く、安らかな夜が訪れますように。