記憶を街にのこせたら~中西巌さんと旧陸軍被服支廠を歩く~

記憶を街にのこせたら

被爆者として体験を語ることのできる人が少なくなり、この街に残る記憶の断片は徐々に少なく、そして薄くなっているような気がします。それを引き継ごうとする世代の活躍も見られますし、様々な団体、機関が、伝承・継承のために、絶えず取組を行っているのが広島という街だと思います。

しかし果たして伝承・継承された先の姿というのは、どのような姿なのでしょうか。私も記憶の一片を知る者として、できることがあればしていたいという気持ちに何度もなったことがありますが、よくわからないままでいます。

そこで、被爆者の記憶、被爆地の記憶、というのは、人から人へ伝えるというアプローチ以外で補われることがあってもいいのではないかと思いました。そっくりそのまま被爆体験を語ることのできる人が増えることよりも、残されたものから体験を想像したり考えたり、その場に立つ人がその人のバックグラウンド、その人の生きる時代に通ずる教訓を得られたりするような、そんな仕掛けを孕んだ「街」として在り続けることが、ひとつの姿であるかもしれないと思ったのです。

今はまだ幸いに、被爆者の方もご存命の方がおられ、一緒に話をしたり一緒に作業をしたりということができる時ですので。それではその仕掛けを一緒につくるプロセスを経てみようと思い立ったのが今回の取り組みの種となりました。

 

避難した道を歩いてみよう

広島の原爆被爆者の方が、当時のお話しをされるとき、「爆心地から〇〇kmの地点で被爆しました」と語られることがあります。そして、「そこから〇〇km先の自宅まで、歩いて帰りました。」と振り返られることもあります。

それらを多く聞きすぎていたためか、そこに想像力を働かせるにはきっかけが乏しかったためか、ずっとこれまで特に注目したことはありませんでした。

が、

会議室の中で、または平和公園の中で、「爆心地から〇〇km」と言われたとき、私達はなにを想像したらいいんでしょうか。

この街のどこまでが、〇〇kmくらいのところだと、初めて広島に来た人がわかるんだろうか。(生まれてずっと住んでいる私にもよくわかりません。)では彼らが「〇〇km」と、丁寧に数字を間違えずに伝えてくれる数字から、どのように記憶をたどることができるんだろうか。

地図や証言集に残り続けるこの数字をもとに街の中で体験することに、何かヒントがあるかもしれないと思い立ち、今回、実際に被爆体験をもとに、原爆にあってからの被爆者の足取りを、自分たちの足で、追ってみることにしました。

 

長々と書きましたが、

つまり、広島は、被爆体験を追体験できる街なのだということです。街がある。では歩こう、と。話しを聞くことは、ある程度どこでもできるかもしれないけれど、そのままの土地があるからこそ、受け継がれたり、考えやすかったりする原爆の体験があるということではなかろうか、と。

 

中西巌さん

そこで今回、一緒にやりましょうと言ってくださったのが、中西巌(なかにしいわお)さんです。関東以北の県外で、広島の原子爆弾投下に関する展示を行う、『第三世代が考えるヒロシマ「」継ぐ展』のインタビュー記事の中に、中西さんのお話があります。

(実はこのインタビューの中で福岡もインタビューされたことがあり、親近感を覚えたというのが声をかけさせてもらったきっかけのひとつ。)

tsuguten.com

中西さんは、原子爆弾が投下された時間、旧陸軍被服支廠(以下、被服支廠)に動員学徒として派遣されていました。そこから御幸橋へ街の様子を見に行き、その後自宅のある向洋の方へ一人で歩いて帰ったということです。

 

実は、もうひとつ私達と接点がありました。せとまゆのおじいさんと中西さんは同じ工場で働いていた同僚。地元も呉市で近くということで以前から親交がありました。世間は狭い。

 

そこである日突然「被爆体験をさ、歩いてみないとわからんと思うんよね、だから広島から歩かん?!」と言い始めた福岡が、いきなり「中西巌さんのお話読んだんだけどさ、被服支廠も大切に記憶したいし、追ってみん?!せとまゆ中西さんの実家知ってる?」と無茶なお願いをし、

優しくて仕事の早いせとまゆが中西さんに電話したのが今回の取り組みの始まり。

 

被爆した当時の足どりを、そのまま辿って自分たちで歩いてみたいと思ってるんです。なので、ご自宅の場所を教えてくださいませんか?」

 

とお尋ねしたところ、快く教えてくださり、しかも

 

「僕も一緒に歩いてみようかな。」

 

と。

 

被服支廠からご自宅まで、約4km。歩くと1時間くらい。中西さん現在88歳。

 

「いいんですか!??!」

 

(その後どうやって車で伴走しようか、中西さんの体調は大丈夫なのか?!などの戸惑いが頭を駆け巡る。なんてタフなおじいさまなのだ。)

 

陸軍被服支廠

ということで、3月4日(日)、午前11時。被服支廠集合。

被服支廠については、アーキウォーク広島さんのホームページに解説がありましたので、参考にされてみてください。

www.oa-hiroshima.org

※現在は、広島県の管理している建造物ということなので、一般の人は入ることができません。今回は、中西さんにご協力頂き、特別に入らせて頂きました。

 

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中西さんは「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の代表をされており、この建物のこと、そしてここで原爆のあと亡くなられた方々のことをお話されています。入口に掛けられた被爆建物を示す看板も、中西さんらの働きかけによって設置されたものだそうです。

 

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「ここはたくさんの人が亡くなった場所だから。」

と、中西さんは、ご自宅からお花を摘んでこられていました。本当は、靴を脱いで裸足で入りたいくらいだよ。思い出すよね、たくさんの人がここで亡くなった。

 

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1号棟の入口に腰かけ、中西さんにお話しをききました。赤いれんがの建物を背にして、目の前はコンクリートの地面。そこに中西さんの記憶が蘇る。

 

「ここのちょうど目の前くらいに私はいて、この建物の向こう側がちょうど爆心地。この建物のかげになったから、私は偶然無傷で助かったんだよね。」

 

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入口を入ってすぐのところに、1本の松の木と、切株。

「この入口に向かってまっすぐ伸びている商店街があった。今もずっとまっすぐ続いている道があるでしょう。そこを通って沢山の人がこの建物に逃げ込んで来とったんよ。ここはレンガの丈夫な建物だし、軍の施設っていうのは街の人はみんな知ってたから、なんとかしてくれると思ったんじゃろうね。」

「倉庫の中も人だらけだったけど倉庫に入れずに座り込んだ人たちもいた。忘れられないのは、この木の下に赤ん坊を抱いたお母さんが座り込んだこと。おそらく抱いてた赤ん坊は死んでたんじゃないかな、と今は思うんだけどね。お母さんがここへね…。」

 

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建物の中にも入らせてもらいました。

 

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3階建てになっているコンクリートのしっかりした建物。保存の検討をするために耐震強度の調査を行ったところ、1棟につき約20億円の費用がかかるということ。100年ほど前に建てられたコンクリート造の建物としては立派ではありますが、耐震強度は満たしていないということです。

中はひんやりとしていて、3階は天井から光が入りますが、2階と1階は窓も木の板で覆われていて暗かったです。ここに沢山の人が逃げ込んだのだなと思うと、この建物が救った命、看取った命、さまざまにあることを考えさせられました。 

 

 

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中西さんの足取りをたどる

お昼ご飯に3人でうどんを食べました。

うどんを食べながら、当時の生活を中西さんが振り返っておられました。

「学徒動員で重たい荷物をたくさん運んでお腹がすいていたよ。朝もろくに何も食べずに出てきて、作業するからぺこぺこ。軍人さんは厳しかった。厳しすぎてね、ストライキしたことがあったんよ(笑)。毎日身体検査をされるのが、我慢ならんかった。泥棒扱いされとるみたいでほんまに嫌になってからね。」

 

「えーーー!!ストライキ?!仕事しなかったんですか。」

 

「そう。ストライキと言っても、そんな言葉は当時はなかったから自然発生的にね。クラスのみんなで「もう軍のやり方は嫌じゃ!」って言って、更衣室で着替えながら、そのまま立てこもったんよ。」

 

「怒られなかったんですか」

 

「それがね、首謀者出てこい!って言われたんじゃけど、首謀者はおらんかったんよ。もうみんな嫌になってしまって自然と立てこもってしまっとるもんだから。だけどクラスの中で2人ほどが出て行ったんよね。首謀者ではないんだけど。そしたら軍人に連れて行かれて、なんでそんなことするんや!と軍刀を抜かれて脅されたんだって!だけどそのクラスメートは勇気があって、軍刀抜かれとるのに主張したんだそうだ。身体検査が嫌じゃー!って。当時のトップの方の人は少し話のわかる人でね。じきに学校の先生が飛んできて、あとは学校と軍との話にしましょうということになったよ(笑)。」

 

それが原爆の落ちる4か月くらい前の話だそう。そのあとの処分がどうなるかと心配する間もなく原爆が落ちてそれどころではなくなったそうですが。結局そのストライキによって身体検査がなくなったという話だからすごい。

 

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「倉庫の窓をぱーっと開けてね、アメリカ軍の飛行機が落ちていくんも見たよ。落ちる~落ちる~って言って。みんなで見た。それがのちに捕虜となったアメリカ軍兵士で、原爆でなくなることになるんだけどね…。」

 

15歳の少年たちの若々しい記憶の断片をみたのでした。

 

向洋のご実家で

さすがに、歩くのはしんどいということになって(ちょっと安心)

車で中西さんの実家のあった向洋まで移動しました。向洋の駅から歩いてすぐのところ。

「この道を歩いて駅まで行って、そして学校に行っていたんよ。」

 

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現在は別の方が住んでおられるのですが、当時の中西さんのご実家は、当時のままの場所に、当時とほぼ同じ姿で建っていました。

 

「懐かしいねぇ~。当時のままの瓦だ。玄関もそのまま。当時は食糧がなかったから、この狭い土地に畑をつくってかぼちゃを育てたんよ。そしたらかぼちゃのツルが屋根の上まで伸びて。屋根の上がかぼちゃ畑になっていた。かぼちゃのツルから根が出て、屋根の下の土に根付いていたから、えらく瓦がしっかり固定されていてね。このあたりも原爆のせいで屋根やら壁やらぐちゃぐちゃになったんだけど、うちの屋根はなぜか頑丈だったんだよ。」

 

「あ~この狭い路地を走り回って遊んだわ。子どもたちがね。私を育てた家だ。」

 

「近所の友達と3人でね、戦勝祈願っていって、山の上の神社の方にお参りに行ったりもしていたよ。」

 

近所には、当時のままのお宅が何軒も残っていましたし、当時から同じ名前の自転車やさんや酒屋さんがあり、当時からのご友人も住んでおられました。懐かしい、懐かしいと言って歩いている中西さんが、ちょっと若くなったように感じました。

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1日を終えて

せとまゆと福岡は、中西さんと別れたあとにスーパーで飲み物を買って飲みながら思ったのでした。

やっぱり、一緒に歩くと見えてくるその人の記憶がある。二人で被服支廠を歩いても、きっと立派な建物だなぁとか、ここで人が亡くなったんだなぁとか、そういう気づきで終わっていたかもしれないけれど。中西さんという人を通してみる広島の街は、中西さんの人を想う気持ちや、元気な少年の目線からの景色が重なる。 

 

次は二人で実際に中西さんが辿った道を、歩いてみようと思います。

 

ある晴れた春の日の、つむぎ屋の記録でした。