記憶を街にのこせたら vol.3 ~もう一度、中西巌さんに~

▼中西さんと旧被服支廠を訪れた時の様子はこちら

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▼中西さんが当時歩いた道のりを歩いてみた時の様子はこちら

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こんにちは。せとまゆです。

被服支廠跡から向洋まで、中西さんのたどった道のりを歩いた日から2週間後の、6月28日。私となおちゃんは、中西さんが現在お住いの呉市安浦町まで、改めてお話を聞きに行きました。

実際に歩いてみると、お話を最初に聞いて「知ったつもり」になっていた当時の情景がいかに部分的なものであるかを痛感して、もう少し、質問を重ねて話を聞かなければと思ったのです。

もう一度当日の証言をなぞりながら、そして私たちが実際に道を歩いた時の感想や疑問を重ねながら、断片的な記憶をお話いただきました。

 

被服支廠のものがなくなっていた話

中西さんが被爆した被服支廠の跡地に再び訪れたのは、1ヶ月以上過ぎた1945年9月のこと。その時には、建物の中には文字どおり「何も無くなっていた」んだそう。

「後から聞いた話だと、偉い人ほど、荷車・馬車を使って大規模に持ち出したみたい。
 機械に強い人はミシンのモーターを全部持ち出したとか。それを元に広島の電気会社を作って大儲けしたとかって話も聞いたよ。

 掃除したように物は何にもない。手ぬぐい一本落ちてなかった。軍の管理下の頃はあんなにものひとつ持ち出すのに厳しかったのに。」

 当時はカバンもとても貴重だったからと探しに来た中西さんでしたが、もちろんカバンも残ってなかったそう。

「草むらの中に落ちていたボビンひとつ見つけて持ち帰った。お母さんはそれでも喜んでいたよ。当時は糸も超貴重だったから。国防色の糸ね。」

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私たちが訪れた時の被服支廠跡の様子



広島駅が燃えているのを見た 

私たちが辿った道を説明していると、ふと思い出したように当日の広島駅の様子を語ってくれた中西さん。

「横目で見ると広島駅が猛烈に火を噴いて燃えていた。中心地はすぐ燃え尽きて、どんどん燃え広がっていたから、私がその辺りを通った夕方頃はちょうど広島駅が燃えていた。

 コンクリートで石造りだから建物は燃えてなかったけど中のものは燃えていた。丸い窓が全部火を噴いていた。毎日通っていたあの駅が燃えている、と思ったね。二葉山にも山火事が部分的に出ているのが見えた。焼けた後の広島駅は異様にまっしろだったのを覚えてる。」

 

当時の大洲通りの景色

大洲通りは、呉の鎮守府と広島の大本営をつなぐ道路で、当時としては珍しいコンクリートの道路。戦争末期に呉の軍の施設と広島の軍の施設を結ぶために突貫工事で作ったんだそう。

「当時にしてはびっくりするほど大幅な道でね。『飛行場もかねとるんか?』と思ったよ。まわりはレンコン畑やぶどう畑。民家はあまりなかったね。」

 当日の夕方、中西さんも歩いていた頃、大洲通りには道々けが人が何人かいたそうです。

「レンコン畑の泥水の中へ火傷した人が半分入っているような人もいた。
 ぶどう棚の下に入ってる人もいた。

 火傷した人がすがりついて『助けてくれ、連れてってくれ』といってくる人もいた。大人の人でね。怖いとかなんとか通り越して、頭真っ白になる。異常なものの中に放り込まれるとそういう感覚がなくなるみたい。

 ただただ『お母さんとこに帰りたい』という感覚だけ覚えてる。人間ってそんなもんらしい。

 『家に知らせてください』という人も1人か2人いた。冷静な感覚だったら『じゃあどこですか』と聞けたけど、そういうのも考えられる精神状態じゃなかった。そんなことくらいならできんこともなかったかもしれん、と後になって思うよ。
 助かるか、せめて死に目に会えた人もおったかもしれん、今でも申し訳ないという気持ちもある。」

当時の大洲通りの情景を振り返って、頭で考えて家路を辿っている人は少なかったんじゃないかと中西さんは推測します。

「正常な判断はできない状態だったこともある。程度の差はあれどね。人の行く跡をとにかくぞろぞろついていく、そんな感覚。どこを通ってどうすれば、というような判断はつかない状態だった。誰かがそちらに向かいだしたら自ずとついていく。

 あの時、被服支廠にぞろぞろ入ってきていた人も、そういう感覚できていたんじゃないかな。『真っ赤な建物は軍のもの』という認識はみんなあったから。軍隊の施設に行けばなにかしてくれると思っていた。だれか1人が来始めたら流れ込む。たぶんどっこもそうだった。

 宮島街道、可部街道、大州街道、もしくは宇品から船で。
 その4つが避難道というかね、ともかくともかくの道だった。」

 

家に帰った時のこと

「家に帰る前にね、プロペラ飛行機作りの名人のお兄ちゃんの家に寄って、『頼んでた飛行機どうなっとる?』いうて。そのお兄ちゃんは少し年嵩だったから、『広島の方はどうなっとるん、大変なことじゃ』的な会話をして、数分寄っただけですぐ帰ったけど。ほんとにアホみたいじゃろ。半分子供みたいなもんじゃけえねえ。」

中西さんが家に帰ると、家族はもう帰ってこない中西さんを思って仏壇を拝んでいるところだったそうです。

「妹は顔を見るなりうわーっと大泣きで。昼頃は、おばあちゃんたちが呉道路の方に立って私の学校名を言って、『この学校の学生を知りませんか』聞いていた。『市内の学生は皆死んだよ』と言われて、死んだことになっとったんよ。」

「前日に突然お母さんがちらし寿司を偶然作ってくれてね。当時としてはすごいご馳走よ。平生に食べるようなもんじゃない。たまたま近所の人が、一握りのお米や玉子、小イワシをくれたみたいで。粗末なチラシ寿司だけど。『お母ちゃん美味しいなあ美味しいなあ』、と私はとにかく喜んで食べた。少しずつしかなかったけどね。だからあれが最後の晩餐になってしまったかと、お袋も思ったんだって。一度は半狂乱になって市内に探しに行く!と騒動していたみたい。」

 

いろんな母がいた、いろんな先生がいた

当時の広島の、いろんな母親たちの話も聞きました。

「軍国夫人のお母さん、戦争反対のお母さん。いろんなお母さんがいた。『体調が悪い』という子供を、無理やり行かせたお母さんも、数ある中にはおったじゃろう。戦後二十年くらいたって、無理やりいかせたお母さんの話を聞いたよ。もうその時はおばあちゃんになっとっちゃったけど。

 『私のこの右腕を誰か切り落としてくださらんか。
  息子が体調が悪いと言った時に、「あんたが頑張らんにゃ」と右腕で肩を押した。
  「じゃあ僕は頑張ってくる」ってニコッと笑って出て行った。
  あの笑顔が忘れられん。』

 『この右腕であの子を地獄へ突き落としたんだ。
  あの子は今でも地獄で恨んでいるだろう。
  この腕のついたままでは、地獄であの子にあわせる顔がない。』」

学徒動員中の学生がたくさん亡くなったという話を、多くの被爆者の方から聞いていましたが、亡くなった学生さんたちの陰には、その日その場所にその子を行かせてしまったという自責の念にかられる、母親や先生たちがいたのだと、中西さんの話を聞いて初めて気づきました。

「一人生き残った校長先生もいた。お母さんたちから『うちの娘を返してください』と言われてね。詮ないけど、恨みや気持ちの持って行き場がなくて。うちの娘はどこで死んだんですかと泣きつかれても、どうしようもない。『一緒に死んでやりたかった、一緒に死んでやりたかった』とおっしゃっていたそうだよ」

 

自分の出身校を言えなかった頃

「私の行っていた附属中学は全員助かった。県立じゃなくて官立だったから。
 建物疎開には行っていなかった。単独で文部省の卒業生に頼み込んで、勤労奉仕をせんわけにはいかんけど、農村の勤労奉仕をしていた。八本松を拠点にね。

 戦後は他校の遺族から恨まれた。ちょっとしたエリート学校みたいな感じもあったから。女学校はヤマナカ、男子はフゾク、がそういう雰囲気。『附属中学はけしからん』って。そりゃ恨めしいよな。

 被爆した、というと『どこの学校ですか』と聞かれる。嘘はつけない。それもあって、被爆したという話は本当にしばらくできなかった。学校の慰霊碑ができたのもここ十数年よ。」
 

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話を聞けば聞くほど、様々な立場の様々な痛みがそこにあったこと、未だそこにあることを痛感する時間でした。直接的な傷だけでない、見えない傷を無数に生み出した原爆。この見えない傷を感知するには、想像力が不可欠です。

 

想像しながら、街を歩くこと。

自分たちの中にその意味を落とし込みながら、この「街を歩く」をプログラム化してみようと、なおちゃんと決めたのでした。

記憶を街にのこせたら vol.2 ~中西巌さんの歩いた道のりをたどる~

お久しぶりです

こんにちは。せとまゆです。

前回のなおちゃんの記録から随分と時間が空いてしまいましたが、中西さんの歩いた道のりを今度こそ二人で歩くぞという計画は、今年の6月に決行されました。

そして実際に歩いて改めて湧いた疑問を、中西さんに聞いてみました。これも6月。

その時に感じたことを、改めて書き起こしてみようと思います。

 

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街を歩くだけで自然に学べることがある

6月12日、朝9時半。被服支廠跡を出発。

中西さんの証言によると、当日被服支廠で被爆したあと、一度御幸橋まで様子を見に行ったとのこと。グーグルマップで調べると、御幸橋までは徒歩20分ほどでした。

前回中西さんと被服支廠を訪れた時に教えてもらった、当時にぎやかだったという商店街を抜けて、御幸橋へ向かいます。

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御幸橋にも、当時のことを記してある石板がありました。いろんな被爆者の方の証言の中に登場する「御幸橋」に実際に行ってみるのは初めてでした。そういえば、有名な「原爆投下当日の写真」でこの橋の様子を見たことがある、と石板を見て思い出します。

なおちゃんと二人で、橋の上に立ちながら、写真と今の橋を見比べながら、周りの建物を見回しながら、これはどんなアングルで、橋のこの部分は現存のものと形が似ていて・・・とあれやこれや話しました。

まだ中西さんの道のりを歩き始めて間も無くでしたが、小さく衝撃を受けました。

「ああ、広島の街は、少し意識して歩くだけでこんなに『当時』とつながる場所があるところだったんだ」
知っているようで、知ろうとしていなかったことがたぶんたくさんあると、思ったのです。

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歩いてみることで、見えるもの・見えないもの 

そこから、実際に中西さんが歩いたであろう道のりを、向洋の当時のご自宅まで歩いてゆきました。

歩きながら、当日の中西さんの話を思い出してみようとしますが、その言葉を思い出しても、実際の景色がとても想像できないことに改めて気がつきました。

ーー道の広さは、今と全然ちがうのだろうか。

ーー1日、飲まず食わずだったのだろうか、どのくらい喉が乾いたんだろうか
 (6月だけど暑い日で、私たちはこまめな水分補給を心がけていたのですが、
  されど6月で。炎天下の8月に、疲れ切ってここを歩く状態を想像しようとしてみたり)

ーー周りを同じように歩いている人たちはいたのだろうか。どのくらいいたのだろうか。

被爆証言を聞いて、ある部分の描写をもっと詳しく聞かねば、知りたい、と思ったことはあまりありませんでした。特に当日のことに関しては、話してくださる部分に耳を傾けることに精一杯だったことがほとんどで。

だけどその限られた言葉だけでは、ほとんど情景を思い浮かべきらないのだと、実際に自分の足で歩いてみて初めて気がつきました。

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もう一度、この経験を踏まえて中西さんにお話を聞こう。向洋にたどり着いて一息つきながら、なおちゃんとそう決めたのでした。

ハプチョンへの旅1~釜山1日目~

韓国は釜山市からこんばんは。なおです。

筆不精のわたしが、現地からその日のことをお届けすることにトライしています。

どうぞお付き合いください。

 

さて、現在、釜山にいます。

 

広島・長崎に投下された韓国・朝鮮の方のことを知りたいと思い、

在韓被爆者の多く住んでいる町、ハプチョンを訪れるべく釜山にやってきました。

 

今日は北海道の大地震のニュースを受け、とても心配な気持ちになりながら空港に降り立ちました。何が起こるかわからない。常に備えておこうということと、日々悔いなく生きようということを思いました。

 

今日お会いしたのは、李大宰(イ・テジェ)さん。韓国原爆被害者2世会会長であられます。お父様は長崎で被爆。その後韓国に戻り、在韓被爆者の権利を求める活動をされていました。当時日本で認められた韓国、朝鮮の方への被爆者援護法の適用も、その人が韓国や朝鮮に戻ってしまうと無効になるという通達がありました。それはおかしい!ということで、在韓被爆者への健康面、経済面での援護を求める裁判の途中、お父様は亡くなられたそうです。

「73年経った今もなお、権利を保障されていない在韓被爆者が多くいる。被爆手帳を申請するために、被爆した場所や様子を自分たち自身で証明しないといけない。それはとても困難なことです。(高齢となった人たちが、異国での70年以上前のことをどうやって証明できるでしょうか。)私達はこれまでの活動で、早く当事者が死ぬのを日本の政府は待っているんじゃないかと感じられてならない。被爆者が亡くなったあと、在韓被爆者の存在を、なかったことにはしたくない。だから、父の活動を自分が引き継ぐかたちで、被爆者がいなくなっても、二世のわたしたちが生き証人となる覚悟だ。」

 

一段と語気を強めて、そう話しておられました。お父様についてはこんなエピソードも。

 

「父は、自分が被爆者である、ということを秘密にして生きていました。私が学校へ行き、大学へ行き、就職をし、結婚をし、出産をし、私の人生におけるすべての段階をて、はじめて、明かしてくれました。被爆者であることを表明することで、いいことは何も起きません。被爆しているということで差別されたり、生きにくくなります。父は、私の母にも自分が被爆者であることを言っていませんでした。自分の家族を、あらゆる困難から守るため、秘密にしていたのです。初めて聞いたときは驚きました。」

 

お父様の強い思いに呼応するように、それを引き継いだ太宰さん。太宰さんのように韓国人原爆被害者二世として活動する方がおよそ300人おられるそうです。

 

「最初は、日本の政府に対して全くいい気持ちはしませんでした。今も政府に対しては、被爆者への賠償をしっかり行ってほしいというおもいでいっぱいです。しかし、「日本人」に対するイメージは、これまでの活動の中で少し変化がありました。私の父は、日本が朝鮮半島を植民地にしていなかったら、日本に渡ることもありませんでしたし、日本に渡っていなければ、被爆もしませんでした。そして苦しい生活を強いられることもありませんでした。日本が父のような在韓被爆者にも相応の賠償をすることを望んでいます。しかし、在韓被爆者のために活動する心ある日本人にも出会いました。彼らとの出会いは、人と人として、日本人にもいい人がいっぱいいるということを感じさせるものでした。日本との行き来を重ねるにつれて、そのことを実感するようになりました。なので、今では日本と韓国の高校生を平和大使として交流させたり、韓国の高校生たちを連れて日本に行ったりもするようになりました。」

 

このほかにもたくさんの話を、およそ3時間にわたってたくさんしてくださいました。

 

太宰さんは、韓国の伝統楽器を演奏されます。大きな横笛、テグムで、朝鮮半島の人々にとって大切な歌、アリランを演奏してくださいました。故郷への思いをこめて。

 

それから、私達にたくさんのお土産をくださいました。まず、話をしている間はお茶を、そして次々にお菓子を、フルーツを。そして活動を紹介する資料や書籍を。そして、ご自身の得意な習字で扇子に絵を書いてくださり、お土産をいくつもくださり、そして晩ごはんをお気に入りだという食堂で御馳走してくださり、さらに、ホテルまで送って下さり、道中、釜山市内の様々な所へ連れて行ってくださいました。

 

釜山には、日本人の官吏が多く住んでいたそうです。水晶洞という場所には、周りとは違う、日本家屋が一棟、文化財として残されています。また、西面(ソミョン)にある市民公園にも連れて行ってくださいました。この場所は米軍基地があった場所で、その前は日本軍の持つ競馬場でした。日本が植民地支配をしている頃の写真、日本軍が駐在している頃の写真、終戦後米軍がやって来てそれを歓迎している市民の写真など、この場所を切り取った写真が多く展示されていました。そして2010年、米軍基地が撤退し、別の場所へ移って、公園ができました。

 

もっともっといろんなことを聞かせてもらったり、行ったりしたのですが、(日本領事館の前の慰安婦像も見ました。)ちょっと眠気に勝てなくなってきたので、最後に感想を書いて終わろうと思います。

 

釜山に来てすぐ、ホテルにチェックインしました。そして市場を歩いて、屋台でチヂミを食べました。地下鉄に乗って、太宰さんに会うために釜山の高校へ行きました。

それまでは、気づけなかったのですが、釜山には町のあらゆるところに、ここが日本が支配していた場所なんだという「事実」「証拠」があるのですね。

太宰さんの話を聞きながら、どうしても自分が日本人であるということを意識している自分がいることに気づきました。一人の人間として、彼の話を聞こうと思った、部分もあったのですが、結局は私は日本人で、かつ、広島の人間なのだということを意識しながらその場にいました。

原爆の話をする時、特に広島では、広島の人たちの目線は「被害者」になるのではないかと思います。私も今までずっとそうでした。シンガポールを訪れたとき、初めて日本にルーツを持つ人間として、日本人が戦争中にアジアの人々に行った残虐な行為を突きつけられ、それをどうとらえたらいいのかわからなくなり、そこで「加害者」としての自分のルーツを意識するようになりました。

今日、原爆や被曝者について話をしていましたが、日本、広島にルーツを持つ私は、一人の「加害者」のルーツを持つ人間として話を聞いていたように思います。原爆ときくとき、「被害者」になりきってしまう錯覚はどうして起きてしまうのでしょうか。韓国に来て、太宰さんの話を聞きながら見えてきたのは、また別の「広島」「日本」の姿でした。前回韓国に来た時に一緒に来た大学の先生から「歴史はある一つの立場から見た過去の出来事の見え方だ」と教わりました。ああ、これがone of いろんな見え方なんだと思いました。

太宰さんのおじいさんは三・一独立運動に関わった人で、韓国政府から勲章ももらってます。おじいさんは何度も投獄され、手の爪がすべて剥がされたりと、拷問を受けてきました。そして、もうこの国には住めないと思い、日本へ渡ったと言います。

太宰さんが自分の故郷や自分のルーツを重んじる姿勢は、誰にでも通じるものであるだけに、彼のルーツを苦しめた国が日本であることを、重く受け止めねばと思いました。太宰さんはそのすべての事実を、実に淡々と、力を込めて、私たちに知らせようとしてくださいました。そこに私達を責めるものはもちろんなく、ただ、彼の大切なもの、そして今も通じる日本と韓国に大切なもの。

太宰さんは「日本と韓国の関係が良くなってほしい」と言っておられました。ひょっと訪ねて話を聞かせてくださいと現れた私達に、これ以上ないおもてなしをしてくださった太宰さんに感謝の気持ちしかなく、また、これほどまでによくして頂けることの重みもまた、感じてしまわずにはいられませんでした。

 

途中から、高校生の男の子が一人、私達にジョインしてきました。彼は学校ではなく塾で日本語を学び、大学からは日本に進学したいそう。韓国語のできない私の通訳となってくれました。彼が明日、私達を案内してくれることになりました。彼もまた、日本が大好きだと言い、とてもユーモアのある性格と共に私達を大いに楽しませようとしてくれます。

 

明日は、釜山市内にある博物館をめぐります。

 

ホテルに戻り、パソコンをたたきながら、なぜこんなことに興味があるのだろうと考えています。色んな理由がありますが、ふと、思い出したのは、母が私が小学生の頃友達と喧嘩が絶えなかった時に教えてくれたことでした。

 

「いい?なおちゃん。難しいとは思うんだけど、相手の立場に立って考えなさい。今、相手はどんな気持ちだと思う?」

 

相手の立場に立って、考えること。一度立ち止まって立場を変えて、考えること。

 

立場を変えるのは、できている振りをしてしまいがちだと思いました。また明日、歴史の新たな立場を感じられるよう、今日はゆっくり休みます。

 

北海道をはじめ、台風を受けた関西の皆様、豪雨災害を受けた中四国の皆様、その他気の休まらない夜を過ごす方も多いことと思います。一日も早く、安らかな夜が訪れますように。

 

 

 

韓国の広島、ハプチョンへ行ってきます

奈織です。

 

明日より、韓国へ行きます。二度目の韓国。少し緊張します。

目的は、ハプチョン(陜川)へ行くことです。

ハプチョンは、「韓国のヒロシマ」とも言われているところです。

 

広島と長崎に原子爆弾が投下され、犠牲となったのは日本人だけではありません。およそ20の国や地域の人が広島・長崎で被爆したと言われています。

広島ではおよそ2万人の韓国・朝鮮人の方々が亡くなったそうです。生き残った方、つまり「被爆者」として生きることとなった人たちは、1万人~2万人と想定されています。

そのうち、日本に残った方もいれば、終戦朝鮮半島へ帰った方もおられます。

およそおよそと書いているのは、つまり、きちんと調査されていない&する術もないということです。戦争中混沌とした中で誰がどのくらいどうやってどこへ渡ってどうなったのか、わからないのです。原爆の犠牲者においては、広島市民の数でさえ、1万人の±があるほど、調べられないほど壊滅的だった。そんな中で国境を越えて生き延びた人たちがいることを、日本にいながら想像することは、私にはちょっと難しかったです。

 

けれど、広島で在韓被爆者の支援をしている方々との出会いや、在日コリアンとして被爆した方と出会う中で、その事実はだんだんと確かな実感を持って私の中に浸透してきました。

 

ハプチョンは、日本が朝鮮半島に侵略した後、朝鮮総督府が土地の整理を行った際に農地として指定されましたが、作物が多く取れる土地ではなく、貧困に苦しんだ人びとが多く日本に渡り、生き延びようとしたという歴史があります。そして終戦後、広島から帰った人びとの集まる場所となりました。

 

ハプチョンに限らず、被爆した後外国に渡った人びとは、その地で後遺症に苦しむことになります。韓国では今年に入り、韓国政府が在韓被爆者の実態を調査し始めるというニュースもありましたが、70年以上に渡り、在韓被爆者は、受けた被害の賠償を韓国政府や日本政府に求めてきました。日本人被爆者の被害に対する援護にはるかに遅れて、在韓被爆者の援護が始まるなど、様々な面で苦難を余儀なくされたことも事実です。

 

見えなくなってしまう事実を、見えないままにしておいてはいけない。

 

そういう思いで、被爆者の声をきこうと思い、フランス領ポリネシアの核実験による被爆者にも話しを聞くなどしてきました。今回もまた、歴史の中でメインストリームとして語られる存在ではない、けれど確かに存在している事実とその人びとに出会おうと思いました。そしていつもお世話になっている研究者の方に同行するかたちでハプチョンを訪れることとなりました。

 

直接その地を踏むこと、その地の人と出会い、言葉を交わすことは、お互いに知り合うための、何にも代えがたい方法です。

 

ピースボートで世界一周した際には、留学生として広島に来ていて被爆したブルネイの首相、シンガポールで日本軍が行った虐殺の被害者のお孫さん、スペインによるパナマの植民地支配によって傷ついた村のおばあちゃん、差別に苦しむロマ族、アウシュビッツに収容されていたユダヤ人のおじいさん、パレスチナからヨルダンに逃れてきて難民となったご家族など、日本にいては知ることもなかっただろう人びとに出逢いました。

出逢うことは、お互いを知ること。そんなことを学びました。

 

今回の旅が、どんな出会いとなるのか、まだわかりませんが、

見聞きしたことを、伝えるんだという使命を背負ったつもりで、行ってきたいと思います。

 

せっかくブログがあるので、発信の場として活用しましょうという実験的な試みですが、どうぞお付き合いください。

 

 

記憶を街にのこせたら~中西巌さんと旧陸軍被服支廠を歩く~

記憶を街にのこせたら

被爆者として体験を語ることのできる人が少なくなり、この街に残る記憶の断片は徐々に少なく、そして薄くなっているような気がします。それを引き継ごうとする世代の活躍も見られますし、様々な団体、機関が、伝承・継承のために、絶えず取組を行っているのが広島という街だと思います。

しかし果たして伝承・継承された先の姿というのは、どのような姿なのでしょうか。私も記憶の一片を知る者として、できることがあればしていたいという気持ちに何度もなったことがありますが、よくわからないままでいます。

そこで、被爆者の記憶、被爆地の記憶、というのは、人から人へ伝えるというアプローチ以外で補われることがあってもいいのではないかと思いました。そっくりそのまま被爆体験を語ることのできる人が増えることよりも、残されたものから体験を想像したり考えたり、その場に立つ人がその人のバックグラウンド、その人の生きる時代に通ずる教訓を得られたりするような、そんな仕掛けを孕んだ「街」として在り続けることが、ひとつの姿であるかもしれないと思ったのです。

今はまだ幸いに、被爆者の方もご存命の方がおられ、一緒に話をしたり一緒に作業をしたりということができる時ですので。それではその仕掛けを一緒につくるプロセスを経てみようと思い立ったのが今回の取り組みの種となりました。

 

避難した道を歩いてみよう

広島の原爆被爆者の方が、当時のお話しをされるとき、「爆心地から〇〇kmの地点で被爆しました」と語られることがあります。そして、「そこから〇〇km先の自宅まで、歩いて帰りました。」と振り返られることもあります。

それらを多く聞きすぎていたためか、そこに想像力を働かせるにはきっかけが乏しかったためか、ずっとこれまで特に注目したことはありませんでした。

が、

会議室の中で、または平和公園の中で、「爆心地から〇〇km」と言われたとき、私達はなにを想像したらいいんでしょうか。

この街のどこまでが、〇〇kmくらいのところだと、初めて広島に来た人がわかるんだろうか。(生まれてずっと住んでいる私にもよくわかりません。)では彼らが「〇〇km」と、丁寧に数字を間違えずに伝えてくれる数字から、どのように記憶をたどることができるんだろうか。

地図や証言集に残り続けるこの数字をもとに街の中で体験することに、何かヒントがあるかもしれないと思い立ち、今回、実際に被爆体験をもとに、原爆にあってからの被爆者の足取りを、自分たちの足で、追ってみることにしました。

 

長々と書きましたが、

つまり、広島は、被爆体験を追体験できる街なのだということです。街がある。では歩こう、と。話しを聞くことは、ある程度どこでもできるかもしれないけれど、そのままの土地があるからこそ、受け継がれたり、考えやすかったりする原爆の体験があるということではなかろうか、と。

 

中西巌さん

そこで今回、一緒にやりましょうと言ってくださったのが、中西巌(なかにしいわお)さんです。関東以北の県外で、広島の原子爆弾投下に関する展示を行う、『第三世代が考えるヒロシマ「」継ぐ展』のインタビュー記事の中に、中西さんのお話があります。

(実はこのインタビューの中で福岡もインタビューされたことがあり、親近感を覚えたというのが声をかけさせてもらったきっかけのひとつ。)

tsuguten.com

中西さんは、原子爆弾が投下された時間、旧陸軍被服支廠(以下、被服支廠)に動員学徒として派遣されていました。そこから御幸橋へ街の様子を見に行き、その後自宅のある向洋の方へ一人で歩いて帰ったということです。

 

実は、もうひとつ私達と接点がありました。せとまゆのおじいさんと中西さんは同じ工場で働いていた同僚。地元も呉市で近くということで以前から親交がありました。世間は狭い。

 

そこである日突然「被爆体験をさ、歩いてみないとわからんと思うんよね、だから広島から歩かん?!」と言い始めた福岡が、いきなり「中西巌さんのお話読んだんだけどさ、被服支廠も大切に記憶したいし、追ってみん?!せとまゆ中西さんの実家知ってる?」と無茶なお願いをし、

優しくて仕事の早いせとまゆが中西さんに電話したのが今回の取り組みの始まり。

 

被爆した当時の足どりを、そのまま辿って自分たちで歩いてみたいと思ってるんです。なので、ご自宅の場所を教えてくださいませんか?」

 

とお尋ねしたところ、快く教えてくださり、しかも

 

「僕も一緒に歩いてみようかな。」

 

と。

 

被服支廠からご自宅まで、約4km。歩くと1時間くらい。中西さん現在88歳。

 

「いいんですか!??!」

 

(その後どうやって車で伴走しようか、中西さんの体調は大丈夫なのか?!などの戸惑いが頭を駆け巡る。なんてタフなおじいさまなのだ。)

 

陸軍被服支廠

ということで、3月4日(日)、午前11時。被服支廠集合。

被服支廠については、アーキウォーク広島さんのホームページに解説がありましたので、参考にされてみてください。

www.oa-hiroshima.org

※現在は、広島県の管理している建造物ということなので、一般の人は入ることができません。今回は、中西さんにご協力頂き、特別に入らせて頂きました。

 

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中西さんは「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の代表をされており、この建物のこと、そしてここで原爆のあと亡くなられた方々のことをお話されています。入口に掛けられた被爆建物を示す看板も、中西さんらの働きかけによって設置されたものだそうです。

 

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「ここはたくさんの人が亡くなった場所だから。」

と、中西さんは、ご自宅からお花を摘んでこられていました。本当は、靴を脱いで裸足で入りたいくらいだよ。思い出すよね、たくさんの人がここで亡くなった。

 

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1号棟の入口に腰かけ、中西さんにお話しをききました。赤いれんがの建物を背にして、目の前はコンクリートの地面。そこに中西さんの記憶が蘇る。

 

「ここのちょうど目の前くらいに私はいて、この建物の向こう側がちょうど爆心地。この建物のかげになったから、私は偶然無傷で助かったんだよね。」

 

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入口を入ってすぐのところに、1本の松の木と、切株。

「この入口に向かってまっすぐ伸びている商店街があった。今もずっとまっすぐ続いている道があるでしょう。そこを通って沢山の人がこの建物に逃げ込んで来とったんよ。ここはレンガの丈夫な建物だし、軍の施設っていうのは街の人はみんな知ってたから、なんとかしてくれると思ったんじゃろうね。」

「倉庫の中も人だらけだったけど倉庫に入れずに座り込んだ人たちもいた。忘れられないのは、この木の下に赤ん坊を抱いたお母さんが座り込んだこと。おそらく抱いてた赤ん坊は死んでたんじゃないかな、と今は思うんだけどね。お母さんがここへね…。」

 

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建物の中にも入らせてもらいました。

 

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3階建てになっているコンクリートのしっかりした建物。保存の検討をするために耐震強度の調査を行ったところ、1棟につき約20億円の費用がかかるということ。100年ほど前に建てられたコンクリート造の建物としては立派ではありますが、耐震強度は満たしていないということです。

中はひんやりとしていて、3階は天井から光が入りますが、2階と1階は窓も木の板で覆われていて暗かったです。ここに沢山の人が逃げ込んだのだなと思うと、この建物が救った命、看取った命、さまざまにあることを考えさせられました。 

 

 

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中西さんの足取りをたどる

お昼ご飯に3人でうどんを食べました。

うどんを食べながら、当時の生活を中西さんが振り返っておられました。

「学徒動員で重たい荷物をたくさん運んでお腹がすいていたよ。朝もろくに何も食べずに出てきて、作業するからぺこぺこ。軍人さんは厳しかった。厳しすぎてね、ストライキしたことがあったんよ(笑)。毎日身体検査をされるのが、我慢ならんかった。泥棒扱いされとるみたいでほんまに嫌になってからね。」

 

「えーーー!!ストライキ?!仕事しなかったんですか。」

 

「そう。ストライキと言っても、そんな言葉は当時はなかったから自然発生的にね。クラスのみんなで「もう軍のやり方は嫌じゃ!」って言って、更衣室で着替えながら、そのまま立てこもったんよ。」

 

「怒られなかったんですか」

 

「それがね、首謀者出てこい!って言われたんじゃけど、首謀者はおらんかったんよ。もうみんな嫌になってしまって自然と立てこもってしまっとるもんだから。だけどクラスの中で2人ほどが出て行ったんよね。首謀者ではないんだけど。そしたら軍人に連れて行かれて、なんでそんなことするんや!と軍刀を抜かれて脅されたんだって!だけどそのクラスメートは勇気があって、軍刀抜かれとるのに主張したんだそうだ。身体検査が嫌じゃー!って。当時のトップの方の人は少し話のわかる人でね。じきに学校の先生が飛んできて、あとは学校と軍との話にしましょうということになったよ(笑)。」

 

それが原爆の落ちる4か月くらい前の話だそう。そのあとの処分がどうなるかと心配する間もなく原爆が落ちてそれどころではなくなったそうですが。結局そのストライキによって身体検査がなくなったという話だからすごい。

 

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「倉庫の窓をぱーっと開けてね、アメリカ軍の飛行機が落ちていくんも見たよ。落ちる~落ちる~って言って。みんなで見た。それがのちに捕虜となったアメリカ軍兵士で、原爆でなくなることになるんだけどね…。」

 

15歳の少年たちの若々しい記憶の断片をみたのでした。

 

向洋のご実家で

さすがに、歩くのはしんどいということになって(ちょっと安心)

車で中西さんの実家のあった向洋まで移動しました。向洋の駅から歩いてすぐのところ。

「この道を歩いて駅まで行って、そして学校に行っていたんよ。」

 

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現在は別の方が住んでおられるのですが、当時の中西さんのご実家は、当時のままの場所に、当時とほぼ同じ姿で建っていました。

 

「懐かしいねぇ~。当時のままの瓦だ。玄関もそのまま。当時は食糧がなかったから、この狭い土地に畑をつくってかぼちゃを育てたんよ。そしたらかぼちゃのツルが屋根の上まで伸びて。屋根の上がかぼちゃ畑になっていた。かぼちゃのツルから根が出て、屋根の下の土に根付いていたから、えらく瓦がしっかり固定されていてね。このあたりも原爆のせいで屋根やら壁やらぐちゃぐちゃになったんだけど、うちの屋根はなぜか頑丈だったんだよ。」

 

「あ~この狭い路地を走り回って遊んだわ。子どもたちがね。私を育てた家だ。」

 

「近所の友達と3人でね、戦勝祈願っていって、山の上の神社の方にお参りに行ったりもしていたよ。」

 

近所には、当時のままのお宅が何軒も残っていましたし、当時から同じ名前の自転車やさんや酒屋さんがあり、当時からのご友人も住んでおられました。懐かしい、懐かしいと言って歩いている中西さんが、ちょっと若くなったように感じました。

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1日を終えて

せとまゆと福岡は、中西さんと別れたあとにスーパーで飲み物を買って飲みながら思ったのでした。

やっぱり、一緒に歩くと見えてくるその人の記憶がある。二人で被服支廠を歩いても、きっと立派な建物だなぁとか、ここで人が亡くなったんだなぁとか、そういう気づきで終わっていたかもしれないけれど。中西さんという人を通してみる広島の街は、中西さんの人を想う気持ちや、元気な少年の目線からの景色が重なる。 

 

次は二人で実際に中西さんが辿った道を、歩いてみようと思います。

 

ある晴れた春の日の、つむぎ屋の記録でした。

ベアトリスさんから学んだこと。「平和活動="FUN"」という方程式

こんにちは、せとまゆです。

2017年、ノーベル平和賞を受賞したICAN。その事務局長であるベアトリス・フィンさんが、今年の1月、広島に訪問しました。

peaceboat.org

 

訪問中に広島の若者とベアトリスさんとの対話集会が開かれ、約340人が集まりました。私は「広島の若者としてこれまでの活動を報告する」枠で登壇し、高校生や大学生のみなさんと共に、活動発表ののちベアトリスさんと対話しました。

ベアトリスさんの基調講演、質疑応答、そして対話を通して私なりに感じたこと・学び取ったことをまとめてみます。

 

彼女が言ったことそのまま、というより、彼女の言葉の端々から受け取ったものを私なりに絵で描いてみました!という感じです。あしからず。

 

 

漠然とした「平和」を具体的な目標とTODOにしていこう

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”きっと、今目の前でやっていることが、なんとなく、平和につながってる。”

ぼんやりした感覚で、「いつかくる平和」を待つんじゃなくて、 自分からチャンスに手を伸ばそう。具体的に歩みを進める方法を考えてみよう。

例えば今日は何をした?明日は何をする?1年後までに何ができたらいいだろう、5年後、10年後は?

大きな目標を細かく砕いていく作業って、ビジネスの世界では当たり前かもしれないけど、それをこの「核廃絶」の分野で実際に、ICANというチームと様々な人・組織が連携しながらやってきた。

ものすごーくざっくり言うとこんな感じで↓

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やっていく道すじを考えてみると、HOW?の部分が常に問題になる。

じゃあ、次の手をどうやって打とう?

 

 

確立された方法論なんてない。常にクリエイティブであれ

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例えば「影響力のある人を巻き込む」ことが大事なのは、どんなキャンペーンでもそうだと思う。じゃあ「誰に対する影響力がある人が適切なの?」「その影響力のある人ってどんな人?具体的に誰?」「その人にはどういう声かけの仕方が有効なの?」・・・具体的に考えれば考えるほど、その答えは問いを目の前にした自分にしか出せないものになっていく。

今まで人類が到達できたことのないチャレンジをしているからこそ、明確な方法論なんてない。過去に重ねて来た道も、みんながその時のベストを選んできたとするなら、今私たちが選ぶベストはどの方法だろう?

知識や経験を、尊敬し尊重することは大前提として。進む方法、進む道自体は、結局進む本人が周りを巻き込みながら作っていくしかない。

じゃあどうやって周りを巻き込んで行こう?

何かコツはあるのかな。 

 

 

まずは自分ができることから、楽しみながら続けること

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誰かを巻き込みながらムーブメントを展開するためには、いくつかの秘訣がある。

・自分ができることを、楽しみながら続けること

 「全てを賭けてやりきる」と「全くやらない」の100% or 0%じゃなくて、できることを具体的に、できる範囲で続けていこう。見てる周りの人が「いいね!」を押したくなるようなHAPPY感が、自然に周りの共感を呼ぶ。
(へらへらハッピーでいようぜってことじゃなくて、ちゃんと自分ができることを決めてやっていく納得感や、続けるためには楽しい!FUN!って思える瞬間を大事にしていこうぜっていう。)

 

・一つ一つ進んでるよ、って前進感を共有すること

例えばこんな感じ↓

 「核兵器廃絶」っていう一見遠い道のりも、実は日々一歩一歩進んでる。後退してるかもしれない、って切ないニュースも世界には溢れてるけど、だからこそ「実は進んでる」この一歩一歩に注目して周りに伝えることがとっても大事なんだと思う。

「なにも進んでない、どうせ私が何したって変わらないんだ…」って落ち込むより、「あ、少しだけでも進んでるんだ、じゃあ次はこんなことができるかも!」っていう発想ができた方がきっと楽しい。FUN!

 

・否定的な意見は、一旦聞き流したらいいやって思うこと

後ろ向きなようで、実は前向きで効率的なこの秘訣。

そもそもどうやって巻き込む人を増やしていくか?って考えたら、自分と似た考えの人を巻き込んでアプローチできる人をじわじわ増やしていくしかない。とんでもないカリスマでもないし、鶴の一声でみんなが自分の意見に賛成してくれるなんて、実社会ではほとんど有り得ない話。

SNSは若者の強みになるけど、SNSで気軽にコンタクトが取れるからこそ、真っ向から意見だけじゃなくて存在まで否定されるようにな罵声も届いたりする。その人を自分と同じ考えになるように説得することに、労力と時間を割かなくてもいいんじゃないかな?

少しずつ周りに仲間が増えてきたら、その人も考えが変わるかもしれない。その人の考えが変わらなくても、現実は動いていくかもしれない。だったら現実を動かすために、届く範囲に声を届けるところから始めようよ。って話。

 

そして私が感じたこと

・「平和活動を楽しむ」っていう新鮮な感覚

私にとっても、そして多くの広島の若者にとっても、平和活動って「楽しいもの」という認識はあまりないんじゃないでしょうか。学校の「平和」についての授業は常に戦争の話、原爆の話をしていたし、コインの裏表のように、「平和」には凄惨で悲しい、苦しい「戦争の話」がつきものでした。「楽しむ」なんてむしろいけないことだという感覚さえあります。

だけどベアトリスさんの話を聞いていると、確かに、自分が息長く活動を続けるためにも、興味があるかもという人を巻き込んでいく上でも、「FUN=楽しい」っていう感覚はとても重要。

その前向きなエネルギーがあるからこそ新しく巻き込める層が確実にある気がします。

もちろん、ニコニコと原爆の話をすることなんてできません。
おちゃらけて戦争の話に触れて、誰かを傷つけることもしたくありません。

過去に起こった事実をきちんと見つめて向き合って、話をしてくださる方に敬意を持って接する一方で、「じゃあ、これからどうしていく?」という話をするときにはワクワクする気持ちを大切にしたい。

何よりも、実際にもっと世界をもっとよくするために。できることを続けるために。

 

・ベアトリスさんには、「敵」がいないんだなあ

 これは当日のやりとりの中でも、来日に合わせて安倍首相に面会を求めて「日程が合わず難しい」と断られたという報道を目にした時も思ったことです。

www.huffingtonpost.jp

核兵器をなくそう!」って思ってる人の「敵」って一体誰なんだろう。

あらゆる核兵器保有国?

特にたくさん持ってるアメリカやロシアの政府?

最近「脅威」と名高い北朝鮮?核開発の再開を打ち出したトランプ大統領

アメリカとの関係を重視して、核兵器禁止条約に反対する日本の政府?

核兵器を持っておこう!その方が安全だ!と声高に言う人たち?

・・・

安倍首相に面会を断られたベアトリスさんが、コメントで「次の機会に期待している」と言っていました。前後の文脈などなどメディアによって切り取られ方や、その結果の受け取られ方は様々だけれど、私は「ああ、核兵器禁止条約に反対してても、日本政府もベアトリスさんにとっては『仲間』なんだな、核兵器のない世界を作る上での。」って感じがしたんです。

それってとっても大事な感覚だなあと思って。

今「核兵器必要!!」って言う人たちも、根本の願いの「大切な人と、穏やかに幸せに暮らしたい」っていうのは共通なんじゃないかなと。

じゃあ、そういう世界作ろうぜって目標に向かうとすると仲間ですもんね。そのための具体案の一つが「核兵器をなくそう」で、私的になかなかこれは譲れないんですけど・・・。少なくとも「最終的に核兵器はない方がいいよね」「なくせるんなら核兵器なくしたいよね」は核保有国でもそうじゃなくても、世界中ほとんどの人の共通認識で。

じゃあ、それどうやって実現しよっか?

って話を一緒に考えるときに、「敵」はいないんだなあ。

 

って、目からウロコが落ちる感覚でした。

 

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世界の最前線で活躍する先輩のお話に、とっても刺激を受けました!という報告でした。

誰かの「一歩前へ」の原動力になったら、とっても嬉しいです。

 

(せとまゆ)

What’s つむぎ屋

 

広島で育ったというべきか、広島に育てられたというべきか。
「平和」のある暮らしの中で、日々の言葉を、つむぐことができたらと始めてみました。

「広島で「平和」が近くにあると、考えることも多いよね。」
「なんかこう、もう少し、何かできることありそうだよね。」

私達は二人とも、広島・長崎の被爆者など、人々に大きく影響を与えた歴史の体験者と共に過ごした経験がある。日本だけでなく、海外からも広島で「平和」を学びたい、広島にいる人の話が聞いてみたい、という声は多い。それにこたえることはできそうである。そんな二人が今やっておきたいこと、できることは、広島に住む20代のひとりとしての日々をつむいで形にすることから始まるかもしれない。


せと まゆ
1991年呉市川尻町にうまれ、海と山のある風景ですくすく成長。NGOピースボートの主催する「おりづるプロジェクト」などに参加し、地球一周の航海で地球を3周する。通訳を突然無茶ぶりされてもこなせるくらいに英語も堪能。イベントの運営や広報も得意。東京に住んでいたが、広島に戻り、カフェ店員をしながら歌い手としても活躍の場を増やしているところ。しっかりしていると見せかけて、自転車で転んだりするところが魅力。

 

ふくおか なお
1992年広島市にうまれる。広島・長崎の被爆者と旅する3か月を経て、「はちろくトーク」など、ひらけたフラットな空間で被爆者の話を聞く会や、広島で平和に関する研修などをコーディネート。2015年、大学の卒業論文を書くためにフランス領ポリネシアタヒチ島に1か月滞在ののち、価値観を大きく揺さぶられ、ひとりで生きていけるおばあちゃんになることをテーマに生きている。広島でNPOスタッフをしながら、まちの記憶や物語を表現することができたならと考えているところ。